錦天満宮の由緒
「錦天満宮」の創建は『学問の神様』として知られる平安時代の学者、政治家であられた菅原道真公(菅公)の父親である菅原是善の旧邸、菅原院と深く関わっております。
菅原院は菅公の薨去後に歓喜寺となり、長保5年(1003年)源融公を祀る塩竈宮がある六条河原院(※1)に移り神護にあたり、天満大自在天神をお祀りしました。
そこから約300年の時を経て、正安元年(1299年)後伏見天皇より「天満宮」の神号の宸翰(※2)を授与されました。また、関白九条忠教は殿宇を寄進し大いに天満宮を奉祀され、そして六条河原院跡を京都八幡「善導寺」に寄進、「歓喜寺」は「歓喜光寺」と改められました。
このように当錦天満宮は歓喜寺(菅原院)に由来しており、後に「菅公聖蹟二十五拝(※3)」の第二番に位置づけられたのはこの由緒によるものです。
歓喜光寺創建から288年後の天正15年(1587年)、豊臣秀吉の都市計画によって、時宗六条道場と称された「歓喜光寺」は錦小路の時宗四条道場「金蓮寺」の敷地に移転。天満宮は以後「錦天満宮」と称され同地に鎮座しております。
このような歴史の中、享保14年(1729年)には前関白九条輔実公の申請で唐破風獅子口を設けました。その後明治5年(1872年)には神仏分離令によって神社が独立。「歓喜光寺」は東山五条へ(後に山科へ)と移り、残された神社は同年新京極通開通の際には社地を縮小し現在に至っております。
(※1)六条河原院・・嵯峨天皇の皇子、源融公の旧邸
(※2)宸翰・・天子直筆の文書
(※3)菅公聖蹟二十五拝・・菅原道真公を祀る天満宮の中で由緒の深い25社
約200坪の境内には、京の街のど真ん中にありながら、四季折々の花々が咲き、地中からは良質な名水・錦の水が湧きでております。繁華街唯一の鎮守社として「智恵・学問・商才の神様」「招福・厄除け・災難除けの神様」として霊験あらたかに、近隣の方々をはじめ、国内はもとより、海外からも御参拝いただき親しまれております。
祭事
- 御祭神
- 菅原道真公
- 御神徳
- 知恵 / 学問 / 商才 / 招福 / 厄除け / 災難除け
- 例祭 神事
- 春季大祭
- 五月二十五日 / 献華(遠州流)、舞楽奉納(平安雅楽会)、和太鼓・獅子舞奉納(独楽)、詩吟奉納(神心流尚道館)
- 秋季大祭
- 十一月二十五日 / 献茶・献華(遠州流)、舞楽奉納(平安雅楽会)、和太鼓・獅子舞奉納(独楽)、詩吟奉納(神心流尚道館)
- 月次祭
- 毎月一日、十五日、二十五日(天神さんの日)
※二十五日は、遠州流生け花奉納 於 社務所 / ごま木(焚上串)お焚上
近代的・経済的に繁栄し続ける京の町で、伝統的・精神文化的な神社として調和共存を唱えながら、誰もが気軽に立ち寄れる「錦の天神さん」として、人々の幸せを願っております。